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ノージャンルの音楽ブログ、青春の80年代洋楽はじめ、J-POPからラテン系まで・・・好きな音楽紹介!

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外科手術と初回抗癌剤 【姉について⑤】

どうにもならない程進行した状態で乳癌が発覚し、最初の治療は「家に帰るにも抗癌剤治療を行うにも、とにかく歩けるようになりましょう」という所からスタートしました。
なので最初は癌病棟ではなく外科の病棟に入り左腕と左足の癌化した骨を取り除きその部分をセメントで埋める。また肩から肘までと大腿骨から膝までにプレートを埋めて補強する手術をおこないました。
術後はリハビリを行い杖などを使いながらでも歩けて日常生活が送れるようになる事ができれば帰宅し通院での抗癌剤治療が行えるようになることが目標でした。
その当時の思い出としては姉も言っていましたが「とにかく暑かった!」
病室は大部屋/6人部屋でしたがエアコンが窓際に設置してあるのですが、姉のベッドは反対の通路側で通常部屋の入り口は解放したままになっているので常に外気が入ります。
しかも個々のベッド・スペースはカーテンで囲まれて仕切られているのでエアコンの恩恵を受けられるのは窓際のベッドだけみたいな状況でした。
毎日のlineでもとにかく「暑い!」のオンパレードで、冷たい飲み物やアイスなどを補給するのが私の日課、最重要課題です。
私も土日は昼頃から病院に行っていましたが、やはり暑くてとても部屋にはいられず毎回車椅子に乗せて部屋から避難していました。
姉の入っていた病院には新館と旧館があり、新館内にセブンイレブンが出来た関係で元々あった旧館地下のレストランスペースが誰も居ない絶好の休憩スペースになる事をたまたま発見し(たまに看護師さんが給湯室的に入ってくるぐらい)、毎週末は午後から夕食が始まる18時頃までそこのソファーを貸し切り状態でおやつ食べたりiPadなんか見ながら過ごしていました。

また幸運にもリハビリの先生(女性)も良い面白い先生だったらしく、リハビリも楽しく積極的に出来ていたようです。
サルサ聞きながら部屋の隅でコッソリステップ踏んでリハビリもしてたみたい。
とにかく暑くて1日も早く帰宅したかったのが本音でリハビリ頑張ってたみたいです。
またこのリハビリの先生には大変にお世話になりました。
実際に退院して通院治療の期間はリハビリはほとんど行っていませんでしたが、最後の最後2019年の入院時には体力筋力の低下によるリハビリが毎日午後から30分程度日課となりました。
この時も最初の時と同じ女性の先生が見てくれており姉が喜んでいました。
リハビリしながら何気ない普通の雑談したり、2人でピンクレディー踊ってみたり、姉も毎日その先生が来るのを楽しみにしていました。
日々辛くなっていく闘病でしたが一時の安らぎになっていたみたいです。

8月に入り、リハビリも無事にこなして帰宅の目途が立ちました。
病棟も癌病棟に移り、様々な検査を受け初回の抗癌剤を投与しました。
幸にも危惧された大きな副作用も出ず、お盆開けての19日には無事に退院して自宅から通いでの抗癌剤治療となりました。
退院の際に私と父は主治医の先生に「姉は無事に年を越せるのでしょうか?」と聞きましたが、答えは「わかりません」でした。
「抗癌剤がどの程度効果があるかによります。」「帰宅して何か異常があったらすぐに電話をして遠慮せず来てくださいね。」と言われました。

本人はどう思っていたのか?
どこまで理解していたのか?
でも私は無事に姉が家に帰ってこれた事に喜び、これからどうなるのか?、どうするのか?不安もありましたが、気持ちは「やるだけの事は可能な範囲でやってみよう」と思い家に迎えました。
事実、姉ともこれからの事、これからの過ごし方について2人で相談しました。
私は「無理はできないけど、可能な範囲でやるだけの事はやるつもりだよ」と伝えました。
姉も「私も出来なくなってしまったことが沢山あるので、迷惑をかけるけどお任せします」
既に癌闘病中の「父親は色々無理があるので、そこもあんたお願いね」と。
これからは二人三脚でやれるだけやると決めて闘病に向かう事となりました。

またその頃には以前に私が問題にしていた異臭の問題もほとんどなくなっていました。
抗生物質の塗薬を処置し、ガーゼの上からいわゆる女性用の生理用品を貼ることで出血でも不安もあまりなくなりました。
ただしその範囲は時間とともに広がっていっているようで体調次第では出血も多かったり少なかったりするようでした。
姉はやはり「髪が抜ける恐怖」と「副作用」を気にしていました。
実際に髪が抜け始めたのは3回目の抗癌剤が終ったあたりですので10月11月あたりから徐々に抜けていった感じでしたね。
年明けの2月頃には裾の部分を残してかなり減りました。私に見つからない風呂場で1人で泣いていたみたいです。
ちょうどその頃には通院用外出用のウイッグを買ったような気がします。
ただ一般的な副作用に関しては、姉の場合は全般的に軽い方であったようです。
抗癌剤投与時には執拗に吐き気止めが出されたりしますが、そのような厳しい吐き気もほとんど無かったです。
何回かの抗癌剤のダメージが蓄積してきた年明け頃から、抗癌剤投与の3日後あかりから発熱、体のだるさと関節の痛みなどが出ていましたが、それも2,3日で収まるような感じでしたので投与から1週間は体調としては良くない感じでしたが、次の抗癌剤投与までの後の2週間は比較的に良好で過ごせるというスケジュールでした。
姉に関して言えば、最後の2019年まで総じて抗癌剤の副作用は幸にも危惧されたほどキツくなかったようで家族としても助かりましたした。

次回は「無理せずやれるだけやっていこう!」という、
その内容について具体的に書いてみたいと思います。
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2015年癌発覚前の情況 【姉について④】

5月21日は姉の誕生日でした。
今年は1人でお墓に行って来ました。
姉の好きだった音楽をiPodに入れ小型スピーカーを持って行き聴かせました。
また珈琲も大好きだったので途中でセブンコーヒーを買ってお供えしました。
(病院内にセブンが入っていたので入院中もよく買いに行かされました)
音楽を流しながら小一時間、色々と想いだしながらそこに座ってやはり泣いてました。
「今日の姉は何を聴きたい気分だったのかな?」
また来年は違う音源や食べたそうな物を考えて持っていきますね。

さて、闘病回顧録の続きです。
以前にも書いた通り、姉は何十年も前から「早死にするから、準備してあるから迷惑かけないよ」と言っておりました。
結果的に全て姉の宣言通りになり、事実「癌と診断されたら○○万円支給します」という保険にも入っており、闘病中の費用はほぼその保険で賄えましたし、あえて言えば去年の夏頃にはその資金がほぼ底を尽き始めていたのを分かっていたので「これ以上長生きしたら迷惑かけてしまう」と思っていたのかもしれません。

姉の癌発覚は2015年の6月でしたが、実はそれ以前に1点だけ私が異常に気が付いていたことがありました。
それは “臭い” です。
発覚前2014年の冬場、特に部屋を閉め切りストーブなど暖房器具を使う10月以降になりますが、姉の体臭が異常な程の異臭を放っていました。
事実私はその臭いが強烈すぎて同じ部屋にいることが出来ず、常に別室に退避していました。
正直同じ部屋にいる父親が信じられなかったのですが、私にはとても耐えられる臭いではありませんでした。
多分9月頃、一度車に同乗してした時にも「あれっ、なにか臭うな?!」と思った事がありましたが、その時はまだ残暑の時期なので「汗でこんな事もあるかな?」ぐらいに考えていました。
体臭というデリケートな事ですし、しかも家族とはいえ女性ですので言うに言えないですね。
ただ冬になり年をまたぐ頃には異臭の具合も更に強烈になり流石に私も耐えきれなくなりました。
確認はしていませんが、多分仕事場でも周囲の人たちに迷惑をかけている事が容易に想像されるレベルですので1月の中旬頃ですが外出してお茶する機会があった時に意を決して姉に伝えました。
「気が付いていると思うけれども、去年の秋ぐらいから匂い体臭がかなりキツイのを分かってる?」「場合によっては病院に行った方が良いかもよ」ぐらいに言いました。
姉は「フーン、あぁ」位の何となくリアクションしただけでしたが私としては意を決して伝えた次第です。

結果的にはあの異常な匂いは乳癌が進行し、乳房の表面まで腫瘍が広がり組織を壊死させていく過程で発生する臭いのようでした。
臭いの他出血も同時にあったようで、その時期姉はいつも家族の中で一番最後にお風呂に入り血で汚れた浴室の後始末や、患部にガーゼを当てる等の処置を深夜に1人で行っていたようです。
今にして思えば体臭というよりもはや腐敗臭で、その時にもっと異常に気付いていればと後悔します。

また15年の春には父親と3人で出かける機会が何度かありました。
桜を見に出かけたり、ちょっと遠めのドライブで姉の好きな蕎麦を食べに行ったりしました。
例年は私と姉2人、又は姉と父の2人で出かけることが多く、3人揃ってという事は珍しいのですが、病気の進行を分かっていた姉がわざとその機会を作っていたのだなと思います。
ただ5月の終盤に3人で出かけた際に山の中の河川まで岩場を降りて行って写真を撮ったのですが、その際の足への負担が大きかったようでその日以降足が痛いと言い始め、遂には仕事で歩けないぐらいまで悪化して癌発覚に繋がります。

癌が発覚してから姉と話した時に、私は素直にこう言いました「お前凄いわ、尊敬するよ。」「本当に偉かった、よく頑張ったよな!」
悔しいですが、これも本心です。もちろんその一方で「何でもっと早く言わんのや・・・」という思いも当然あります。
ただ「私は早死にするから、決まっている事だから準備しているから」と20年前から言い続けてきた姉の意地は褒めてあげないといけないとも思いました。
最初の自覚症状があったのが2、3年前とかだったと言っていたような気がしますが、これだけの症状と向きあいながら誰にも話さず1人で抱え込んで生活していたと思うと、どんなに怖かったか、どんなに不安で苦しかったのか、限界まで1人で耐え抜いた姉を想うと素直に受け入れたくはないけれども、やはり尊敬して尊重してあげないといけないのかもと思います。
もしも自分だったら途中で「病気だと気付いてオーラ」を出してしまいそうになると思います。
「なんで?」という思いは付きまといますが、最後の限界まで自分の思いを貫いた姉を、耐え抜いた姉を、私が褒めてあげないといけないのです。
「本当に偉かった、よく頑張ったよ!」

これが2015年、癌発覚前の出来事です。
もっと早く異常に気が付いてあげられなかったのかという後悔と。
極限まで耐え抜いた姉の精神力を認めてあげたいという思いです。
次回は闘病開始からの話になります。

癌発覚と大前提 【姉について③】

久々の追記です。
姉の事を書く覚悟を決めたものの、やはりここで躊躇してしまいました。

そうこうしている間に、世間は新型コロナで混乱し今に至ります。
ちょうど1年前の今の時期、厳しいながらも姉はまだ家に在宅でした。
肺の癌が進行していましたので冬のインフルエンザの時期も細心の注意を払って過ごしていましたし、同居する家族も気を緩めず春までのシーズンを乗り切るのにハラハラしていました。
今年今の情況で姉が在宅だったらと思うと、それはそれは恐ろしい日々を過ごしていただろうと想像できます。
とはいえ、腎臓と膀胱癌の高齢の父親が居ますので、コロナの中こちらもやはり気が抜けない日々ではあります。

ここ数日、また姉の事を考える事が多いです。
つまり1人泣いています。
5月21日は姉の誕生日です。
なので去年の今の時期の色々な事を想いだしてしまいます。
細かいことはまた後で書きたいと思います。

さて本題です。
姉の闘病について書いていくにあたり、一番基本の部分で書いておかなければならない事があります。
ここが一番悩んで躊躇していた事でもありますが、やはり書かないと先に進めないので書いていきます。

姉が乳癌であると発覚したのは2015年6月でした。
診断がついて主治医の先生に呼ばれ、PET検査の画像をみせられ病状の説明を受けました。
「見ていただけると分かりますが、この全身に点在しているものは全て癌です。」
「手術もできませんので直るとか良くなるとは思わないでください。」
「抗癌剤などの投薬治療を行い最高で現状維持、脳や首、肺他の臓器にも転移していますので何時何があってもおかしくない状況ですので、覚悟はしておいてください。」

私も父も呆然としました。
本当に全身に多数の癌が転移しており、一ヶ所について聞くのも無駄だと思うくらい全身に回り切っていました。
先生としては脳や首、腰やせき髄などどの分の癌が症状をだすか分らないけれども、その場所により言語障害や半身不随など起こることも覚悟してくださいとのこと。
また骨にも酷く転移しており、今にも骨折して歩けなくなっても全くおかしくない状態であるという事でした。
なので即入院して、一番初めに左肩と左大腿骨を外科手術しました。
左肩と左大腿骨はほとんどが肉腫化していて、歩くためにも肉腫を取り除き、セメントで埋め更に鉄のプレートで補強する手術が最優先で行われました。
6月に骨の外科手術をし、その後歩くためのリハビリなどを経過して、最初の抗癌剤投与とそして退院できたのが8月のお盆明けでした。

結論から言うと、姉の乳癌は2015年の数年前から自覚症状ありでした。
(本人に聞いた記憶があやふやになっていますが2、3年前からだったと)
そしてそのまま放置し、全身に転移しており、実際に病院に行ったのも足が痛くて仕事に支障が出るくらいに歩けなくなったので諦めたようです。
つまり本人が放置した結果、もう取り戻せない所まで進行してからの発覚でした。

「私は早死にするから!」
「生命保険も入ってるし、がん保険も入って迷惑かけないように準備してるし!」
これは姉との会話で姉が言っていた事。
相当昔からこんな会話が姉との間でありました。
私が実家に戻って免許取って車でドライブするようになってからなので20年以上前からでしょうか。
普通話しの流れで「病気自慢」したり「長生きなんかせんとピンピンコロリでええわぁー」とかいう事もあると思いますけど、
姉は「私は早死にするって決まってるから、今から準備してるから大丈夫!」的な会話をしたことも一度ではなく、私もそれを理解していましたが、まさか本当に実現するとは・・・。
姉が退院してからもちろん話しました。「なんでもっと早く言わんかったんか?」と姉の答えは「だから前から早死にするからって言ってたやろ。決まってる事なんやからちゃんと備えて準備してたから!」
姉の本当のホントの本心はどうだったのか分かりません。
本当はもっと生きたかったのか?どうか。
家族としてはこんな情況になるまで気付かず、ただただ何も出来なかった事を悔やむしかないです。
ひょっとしたら本人は治療もしたかったのかどうかわかりませんが、家族は何もせずただ見ているだけという選択はありませんので、家族の為に過酷な治療に耐えていたのかもしれません。
私がここに書くのを迷う理由は、姉が積極的に生きるために癌と戦ったのではないかもしれないという思いがあるからです。
そんな闘病期間を私の視点でのみ世に出す事を姉はどう思っているのか?
止めて欲しいのかな?
やはり私の自己満足なんでしょうね。ごめんなさい。
そして今現在、生きるために苦しい闘病生活を行っている人に対して失礼な事なのではないか?
という思いもあります。

ただただこんな姉弟がいて、こんな人生の終わりがあったという事実の記録です。
なので姉との闘病生活は、もう手の施しようがないくらい進んだ状態で始まり、前向きに頑張りつつも「何でもっと早く。。。」というのを言わなずもがな抱えたままでの闘病生活となります。
次回は癌発覚前後の事を想うままに書いていきたいと思います。
この続きを読みたくない方はスルーしていただき、読まれる方はそこをご理解ください。

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Author:パンチョ
様々なお気に入り音楽を気分に任せて上げていく予定です。
基本は青春の80年代洋楽が中心となりそうですが、その他聴いているものは自由に何でもありで進めます。
懐かしの動画やPVを探してきて貼ってみたり、買ったCDの報告やリイシュー情報なども。
ジャンルも時代もバラバラですが、素敵な一期一会となれば嬉しいです!

洋楽=83年~88年あたりが中心。
邦楽=いわゆる渋谷系~キリンジまでPOPなやつ。
細野さんティンパン関係の70年代ものなども。
ソウル&R&B=50年代~現代まで黒いやつ。ダンクラも。
JAZZ=ソウル・ジャズやホンカーのファンキーなの中心。
ワールド=サルサ中心に、各国のリズム探訪。
自称GUACOマニアなので、そこら辺も手厚く。

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